憎むにはワケがある
影連の話。もちろん第一の理由は拾遺「化石の海」にて描かれたように極めて個人的な晴明への愛と傷心(笑)だが大義名分は「肉親の恨みが、かつて朝廷に滅ぼされた祖先の怨念に火をつけた」(傍点筆者)からとのこと。
はたしてその大義名分、本音を言えない事からの苦し紛れかそれとも本当にそういう事実があったのか!
- 橘氏が歴史の表舞台に立つのは30代敏達天皇の5代目にして光明皇后の異父兄、橘諸兄(もろえ)からである。
8世紀初期、時の政権担当者である藤原不比等の子のうち4人
※武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂(まろ)※
が天然痘で死亡したため737年に諸兄が政権を担当する事になる。
740年、諸兄に反発した藤原広嗣(ひろつぐ)が乱を起こすが失敗。
- 諸兄の死後、藤原仲麻呂が政権を握った事に諸兄の子である奈良麻呂が反発、仲麻呂を除こうと企てるが密告により発覚、拷問され横死するに至る(740年・橘奈良麻呂の乱)
- 承和9(842)年、橘逸勢(はやなり)と伴健峯(とものこれみね)に謀反の企てがあったとし、両名が流罪とされる。(承和の変)
藤原良房の計画した政治的陰謀といわれており、これによって橘氏の没落は避けられなくなった。
- 仁和4(888)年、宇多天皇即位後、藤原基経(もとつね)に関白の位が任ぜられるが慣例により辞退、対して勅答は「阿衡(あこう)」に任ずとしたが基経は「阿衡」は名誉のみで実権がない、と出仕を拒否。
朝廷は「阿衡」という位を表記した橘広相の非を認めるに至る。(阿衡の紛議)
橘氏と藤原氏が関わる史実は主にこの4つであろう。「阿衡の紛議」以後、『王都』の時代までで橘氏が歴史の表舞台に立つ事は殆どない。
影連の身に起こった事と承和の変は酷似しているが年代的に同一視は不可能だ。また、影連の幼年期であるはずの920年〜930年前後に似たような事件の記録はない。
ところで、その貳「琥珀の迷境」で影連が「安部氏も朝廷に逆らった」といった事を口にしていたが、伊予親王の謀反事件の際に唯一親王を庇ったのが安部兄雄(しげお)。876年、大極殿炎上の際に罪に問われたのが安部房上(後に許されている)。安部氏の祖である安部御主人は「天武朝の攻臣」であり、天武天皇は兄である天智天皇の死後、その息子である大友皇子から皇位を奪ったのだから、遠回しながら天皇家直系に背いたといえなくもない。苦しいなぁ。
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