だいたいあるのかこの時代
「だいたいトーフがあるのかこの時代…」。その拾「陽のあたる場所」における将之の台詞である。
豆腐に限らず友人等から疑問が挙がった物があるのでここに判っただけでも書くとしよう。
- トーフ(笑。将之の言う通りの表記)
- 詳しくは判らなかったが、どうやら奈良時代には中国から入っていたようである。
問題は「豆腐の角に頭をぶつけて…」という表現が平安時代にあったかだな(笑)。
(「ミイラ取りがミイラ」てのはまずないわな)。
- 鎧【その壱「緋の祭文」】
- 坂上田村麿の蝦夷討ち(797)が描かれている『清水寺縁起絵巻』(室町時代作)や、承平の乱(平将門の乱:940)を描いた絵巻物には大鎧が描かれているが成立が12、3世紀の物が多く、当時存在しなかったはずの薙刀が描かれているなど時代考証の点で信憑性に欠ける。
まぁ、原形にあたる物はあったのだろうが……10世紀の鎧って、資料が少ない……。
- 古今和歌集【その六「夢違え」】
- 913〜914年成立。『王都』の頃には存在する。
- 鉄の霊矢【その拾壱「妖星」】
- この場合「実在したか」の問題…。
春日大社の宝物殿には数多くの武具が納められており、水晶鏑矢・金銅尖矢なる物がある(国宝)。
実際に矢が春日社に納められている辺りを考えれば鉄の霊矢存在の可能性がなくもないが、神社に奉納するなら金とかでできているものにしないか…?何にせよ鏃に打ち直されてしまってはねぇ(笑)。
ちなみに、なぜ「鉄の」霊矢と設定されたかというと黒鉄(くろがね)は五行で「水」にあたるからである(「五行の基礎勉強」の項参照)。
羽のある動物は五行で「火」にあたり「水剋火」の理によってかの蛾は滅されたのである。
岩崎先生、そこまで考えてらっしゃるとはさすが!!
- 碁【その拾八「鬼神志願」】
- 『源氏物語』に出てくるので、少なくとも11世紀初頭には存在する。
- 神護寺の秘仏【その弐拾壱「冥い幻影」】
- 9世紀に作られ現存する、本尊の薬師如来像(像高170cm)。
現在では国宝となっており、将之がしたような首に腕を引っ掛けて引きずるなんて扱いはできない。
ちなみに神護寺は真言宗の寺。秋の紅葉で有名。
- 陰陽寮の鐘【その弐拾四「狂風」】
- 927年成立、967年施行の律令施行細則『延喜式』の陰陽寮に関する項を見ると、漏刻(水時計)の目盛りを測って時刻を鐘を撞いて知らせる役目が設定されている。
史実的に見ると、陰陽寮の鐘は平安遷都時からあったらしいが、大治2(1127)年2月14日に大内裏の火災で焼損、代わりに太宰府の鐘が都に移されたらしい。
…あのぉ…どぉでもいいすけど単行本8巻143ページの方位一覧図、「秋三月内七日二日」て箇所がありますけど「七十二日」の間違いじゃないでしょぉか…いえ、そのぉ…。(←重箱の隅)
- 比叡山の狩籠塚【その弐拾七「妖光の帳」】
- 比叡山4大魔所(狩籠の丘・天梯権現祠・元三大師御廟・慈忍和尚廟)の一つ、狩籠の丘と思われる。
ピラミッド型の3つの尖り石(高さ約1m)が真南、真北、真東に置かれ、1辺9mの正三角形を描いているとか。
それにまつわる伝説は『王都』の通り。最澄が都の巽(南東)に住む魔物を狩って都の艮(北東)に封じたという。
天梯権現祠の辺りは天狗が住むといわれ、元三大師御廟(みみょう)は良源サマの墓、慈忍和尚(じにんかしょう)廟は良源サマの弟子の墓。
良源の通称に「御廟の大師」などがあるけど「比叡山の魔所の主」という意味なワケね。
慈忍和尚(天台宗では「おしょう」でなく「かしょう」というのだそうな)も死んだ後、良源同様に鬼(慈忍は1つ目1本脚)と化して比叡山を守ってるというし…おっかないなぁ…。
…まぁ、ざっとこんなものか。友人諸君、満足したか?ん?
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